貝島町のあゆみについて
貝島町のはじまりは、江戸時代初期に今宮権現(神社)の朱印地(社領)として
開発されたことによるもので、その地名は黒川の中州(島)が、貝殻の形をしてい
たことから「貝島」と命名されたものと思われます。
さて、「貝島」というところは、中央に黒川が流れ、黒川の西岸と東岸および、
東部の台地の三地区に広がる広大な地区で、鹿沼市内では有数の大町内となってい
ますが、江戸時代には、今宮権現の社領として、今宮権現の分社を祀ったことから、
「権現原」といわれ、江戸時代後期は丸滝からの豊富な水量を有する用水を利用し
て、水車を営む人が多くありました。
明治初期には「貝島村」として、わずか13戸の農家でした。その後、大正期に
「貝島町」となり、昭和期には新道が開設され、「貝島橋」もコンクリート橋となり、
近代的な町として住宅や工場が建つようになり、近年の上野原・晃望台土地区画整理
事業や貝島西土地区画整理事業などによる宅地造成により、大きな変貌をとげ、さらに
発展しつつあります。